「武道・空手道の指導者としての心得」

(平成18年第1回指導者研修会資料より)

指導者とはなにか

 指導者、指導員という言葉はいわゆる“師範”と同義語である。広辞苑によると「指さし導くこと。教え導くこと」とある。教える場所がどこかということも、教える対象が何人かということも、教える・指導するということには変わりがない。私達が常に考えていなくてはならないのはそういうことである。

 人が人を導く。指導者になったその時から指導する相手に対して無限の責任が出てくる。特に武道の場合、指導者の人格が直接投影するという意味で技術的な指導能力と共に、一人の社会人としての、又その道における先達としての生き方そのものが後進の批判に耐え得るものでなくてはならない。

 つまり私達は今、空手道の修行者として、又指導者の一人としてここに集まっているが、基本的に考えなくてはならないのは指導者である前に夫々が企業人であり、商人であり、公務員であり、というように一般的には普通の社会人であるという現実である。空手道を修行することで何を求めているかは夫々の人によって正に千差万別であろう。しかし、私達が後進を指導するに当たって何を目的とするかは究極、“よりよい社会人が、社会全体がバランス良く運営されていく為に役立つ”そしてそのことによってその人達自身も生かされて行く。空手道の修練を通じて、そういう人を育てることにあるのではないか。「人作り」というのはおこがましいかも知れないが、しかし、胸を張って、たった1人でもよい。良き社会人を育て得たと自負できるなら、私達自身が人間として成長し得ると信じるからである。

 いかにゴリラの如く強くても、礼儀知らず、非常識で、倫理観に欠け、自分の事しか考えない。そういう人間は社会にとって“百害あって一利もない”と知るべきである。「自他共栄」という言葉は柔道界の巨人 嘉納治五郎先生の教えであるが、戦国乱世の処世と現代の処世とでは、自ずから人としての生き方に相違があるのは当然であり、指導者に求められる資質は好むと好まざるとに関わらず、指導者になったその時から無限に人の師たる自覚と責任の重さを伴うものであり、そのことを思わずして指導者の資格はないというべきである。

 以上、指導者としての立場、在り方について述べたが所詮人は神ではなく、また完全無欠ということは私自身を含めてあり得ない。しかしそういう理想を掲げ、そこに近付く努力をすることが大切であると力説したい。それすらも怠るのであればもはや指導者たらんとするのは間違いであると知るべきである。

国際玄制流空手道連盟 武徳会
会長 最高師範 土佐 邦彦

指導上の注意点について

指導者たることの条件として心得るべきこと。

  1. 人格、技術共に優れていること。
  2. 指導力、感化力に富むこと。
  3. 公平無私、大胆にして細心、且つ実行力を備えていること。
  4. 心の修養を怠らないこと。
  5. 下手な者、不器用なもの、体力、能力に恵まれない者こそ育てなければいけない。

己に勝つということ。

  1. “勝負は時の運”という言葉は自分への慰めであり、ごまかしである。
  2. 勝つには勝つだけの理由があり、負けるには負けるだけの理由がある。
  3. 難しいことだが人一倍の練習と、自分の力を常に100%出せるように研究をし、やるだけやったと自他共に認められるだけの努力をすること。つまり“人事をつくして天命を待つ”ということである。

品格

修行によって具わる気品、品格は空手道(武道)練磨の主な目的ではない。しかし、修行態度により結果的に得られるのがそれである。