玄制流を継いだ土佐邦彦

 新たな道を模索するため、祝嶺氏の去った玄制流空手道を全空連という組織の中で結果的に受け継ぐこととなったのが、土佐邦彦氏だ。
土佐氏と祝嶺氏の出会いは、ドラマチックである(当時、祝嶺25歳、土佐19歳)。
舞台は自衛隊内で行なわれる運動会。高飛びの種目である人物が2歩下がったと思ったら、いきなり飛び越した。しかも着地姿勢は猫足立ち。その人物こそが、祝嶺氏であった。
 すぐに「空手をやっているのですか?」と尋ねるが、祝嶺氏は答えなかった。土佐氏を人気(ひとけ)のない倉庫へと誘うと、いきなり高飛びの要領で土佐氏の頭上を一気に飛び越えた。あっと後方を振り返ると土佐氏の鼻先には、貫手が突きつけられていた。その日を境に、土佐氏は祝嶺氏に師事し、空手修業に没頭することになる。
この時点では、まだ玄制流という流名を祝嶺は名乗っていなかった。土佐氏のように祝嶺の天才的な技に魅せられた者が集い、黙々と稽古に励んでいた。まさに玄制流の基盤をつくりあげた時期であり、土佐氏も形や練習体系の作成に大いに関わった。
 昭和37年、祝嶺氏とも親交の深かった首里手の玉得博康師範を会長に迎え、日本空手道武徳会を創立する。
「玄制流の『玄』という字を広辞苑で引くと“天の別名、微妙で深遠な理、老荘の道徳”とあり、『制』とは“さだめ、のり、おきて、制度、分限、形作る”とある。その目的は奥深い。そして終局の目的は人格の完成を目指す。ゆえに『武徳会』という名がふさわしいのではないか」と土佐氏はその理由を語る。
 その後、40年あまり、自流のスタイルを守りながら、全空連全日本や国体などで活躍する選手を多数輩出。自身も東京都空手道連盟・全空連の要職を歴任。玄制流の発展にとどまらず、日本の伝統空手界の発展に大きく貢献してきた。
そして1984年、創始者である祝嶺氏の監修により、初の「玄制流空手道教範」を刊行。永年の宿願を果たし、日本国内はもちろん、世界中で玄制流を修業する人たち共通の言語を確立したのである。